音楽と読書とゲームと。
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あとがきを読んでいると、ときどき作者が自分じしんのために書いたのだ、とか、
何だか書きたくていてもたってもいられなくなって書いたものだ、とか
そういうことが書いてある作品があって、
そういう場合は死についてのセンチメンタルな(ある意味中二的というか)内容だったり
寂しいとか虚無感に溢れているとか、とにかく現実に生きる上での理想とのズレみたいなことが
書いてあることが多いような気がしている。
ヴァンパイアノイズムっていう作品もその例。
他には記憶にある限りだと永遠のフローズンチョコレートとか砂糖菓子の弾丸はうちぬけないとか……
表現しようとする人種ってえてしてこういうものなのかな、とか
つまり、何かそういう後ろ向きなことを初期衝動にしている人がけっこういるのかなということですけど、
何を隠そうぼく自身が初めて書いた小説も生きることが辛い云々が主だった内容だったりもしたし
(今思うと内容も技術も酷い、とにかく酷くてきっと日の目を見ることはないだろうと思うんだけど、
やはり原点であって自分の中では黒歴史になりようがないものでもある)
ぼくが書いてしまったどうしようもない話のことはどうでもいいんだけど、
世に出ている作品の場合はまあ暗いばっかりじゃ商品にならないみたいなので
たいていは暗い内容の中にも一筋の光というか、ポジティブに締めくくられていることが多いわけなんけど、
正直言って作品内容と現実のズレを思ってしまい何だか余計に脱力することが少なくない。
まあ、それが心地よかったりもするんだけど(自分でもこのへんの心理状態はよく分からない)。
この話にはオチとかは特にないんですが、
まあ、本読んでてこの内容は普段隠さずにはいれない自分の素に近いものがある。と感じるのは
ひとつの醍醐味であるよなとか。
あと、憂鬱もスパイスなんだとかそういう感じで…。
何だか書きたくていてもたってもいられなくなって書いたものだ、とか
そういうことが書いてある作品があって、
そういう場合は死についてのセンチメンタルな(ある意味中二的というか)内容だったり
寂しいとか虚無感に溢れているとか、とにかく現実に生きる上での理想とのズレみたいなことが
書いてあることが多いような気がしている。
ヴァンパイアノイズムっていう作品もその例。
他には記憶にある限りだと永遠のフローズンチョコレートとか砂糖菓子の弾丸はうちぬけないとか……
表現しようとする人種ってえてしてこういうものなのかな、とか
つまり、何かそういう後ろ向きなことを初期衝動にしている人がけっこういるのかなということですけど、
何を隠そうぼく自身が初めて書いた小説も生きることが辛い云々が主だった内容だったりもしたし
(今思うと内容も技術も酷い、とにかく酷くてきっと日の目を見ることはないだろうと思うんだけど、
やはり原点であって自分の中では黒歴史になりようがないものでもある)
ぼくが書いてしまったどうしようもない話のことはどうでもいいんだけど、
世に出ている作品の場合はまあ暗いばっかりじゃ商品にならないみたいなので
たいていは暗い内容の中にも一筋の光というか、ポジティブに締めくくられていることが多いわけなんけど、
正直言って作品内容と現実のズレを思ってしまい何だか余計に脱力することが少なくない。
まあ、それが心地よかったりもするんだけど(自分でもこのへんの心理状態はよく分からない)。
この話にはオチとかは特にないんですが、
まあ、本読んでてこの内容は普段隠さずにはいれない自分の素に近いものがある。と感じるのは
ひとつの醍醐味であるよなとか。
あと、憂鬱もスパイスなんだとかそういう感じで…。
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無題
辛い云々は日常的にあっても、現実ではそうそう簡単に救いの手が差し伸べられらたりはしない、という事か
「メシアの処方箋」
救いが得られるかどうかはわからないが、なんとかしてくれるのではないか、という期待のために危険を冒す、なんてのもある
著者は「神様のパズル」と同じ
文学作品とかドキュメントだと救いがない話もあるけど、需要としては少ないんだろうね
商業的には、救いという「オチ」がないと娯楽として読者が安心できないということか
「メシアの処方箋」
救いが得られるかどうかはわからないが、なんとかしてくれるのではないか、という期待のために危険を冒す、なんてのもある
著者は「神様のパズル」と同じ
文学作品とかドキュメントだと救いがない話もあるけど、需要としては少ないんだろうね
商業的には、救いという「オチ」がないと娯楽として読者が安心できないということか